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定子様の辞世の句


これはほぼ「うた恋い。」第10話の受け売りなんだけど
定子様の辞世の句_f0189802_202910100.jpg

藤原定家の選んだ「小倉百人一首」には
「百人秀歌」というプロトタイプがあったらしいんだ
(「百人秀歌」の方が後からできた、という説もある)

「秀歌」の方には中宮定子の和歌が入っているんだけど、
「百人一首」には彼女の歌が入っていない
ここまでは事実だ
果たしてこれはどうしてなのか
そこには想像の入り込む余地がある

清少納言が愛してやまなかった中宮定子
その辞世の句(人生の最後に残した句)はこんなもの

夜もすがら
契りしことを 忘れずは
恋ひむ涙の 色ぞゆかしき


(もしもあなたが、私と一晩中かけて
 固い絆を確かめ合ったことを忘れないでいてくれるのなら
 私が死んだあとに、
 あなたが私を思って流す涙の色を知りたい…)

切なくて、いい歌じゃないか、と思う
「百人一首」にはもっとフツーの歌も入っているから、
純粋に歌の優劣だけを考えたらこの歌なんて採られてもいいはず
(関係ないけど額田王とかもいい歌詠んでるしね)

ではなぜ定家がこの定子の歌をはずしたのか

『枕草子』を書き写しながら、
定家が清少納言の
「中宮定子の華やかな姿のみを後世に伝えたい」
という思惑を汲み取り、
あえてはずしたのではないか、という解釈はなかなか面白い

確かに今主流になっている『枕草子』の写本を書いたのは
藤原定家だと言われている
清少納言は『枕草子』以外に作品や逸話を残していない
それがすべて計算の上の自覚的な行動なら…
定家がそれに気づいたとしたら…


まぁ、可能性としては相当低いけれど、
もちろん「絶対に違う」とも断言は出来ない
この解釈の余地が、理系の学問とは違う古典の良さだ

そうやって人の想いが重なって連なって、
今、その一番最後に自分たちがいる
そういうことに気づくチャンスは、古典の時間にしかない
少しでもそんなことに気づいてくれると、嬉しいんだけどな


第10話のラスト
立場が変わってしまった清少納言と行成は
自分たちの本心を胸の奥に押し込んだまま
初春に別れを迎えることになる
「楽しい思い出は、
 昔に帰りたいと思うためのものじゃない
 苦しい今をがんばろうと思うためにある」

ラブストーリーってのは、こういうものだよ
お互いの本心に気づきながら、お互いの気持ちにブレーキをかける
自分の愛を貫くために周囲を巻き込んだり突っ走ったりするのは
ただ子どもっぽいだけじゃないか


清少納言の『枕草子』も
藤原行成の書も
藤原定家の「百人一首」も
みんなきちんと現代に引き継がれている

今度博物館に行ったら、
今までは素通りしていたつまらなそうな古文書も
「これって行成本人の書なのか!」
って思ったら、ちょっと感動できると思わない?

もしそうなったら、あなたは1つ大人になったということです
by backdraftid4 | 2013-02-28 21:06 | ホントの「国語」

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